ひめ    
妃ご乱心

桜井真理
 「もし私が離婚したら、いったいどういう事態になるのかしら。私も死んでしまうかもしれない。」
イギリスのダイアナ元皇太子妃が亡くなってからどのぐらい経った頃だろう、マサコがそんなことを考えるようになったのは。

 ダイアナの突然の事故死は、1997年の夏の終り、マサコが祖母を亡くした悲しみも癒えないうちに届いた、衝撃的な知らせだった。マサコは夫のヒロと二人でダイアナを迎えて語り合った部屋で、一人泣いた。

 ダイアナの三度目の来日のときに、マサコは初めて彼女と会った。結婚前にマサコもヒロもイギリス留学経験があり、三人の話は弾んだ。

 マサコはチャールズ皇太子と別居していたダイアナに、王室との関係について聞いてみたかった。しかし初対面であるし、ヒロの手前もあって遠慮してしまった。

 ほんの数時間の邂逅だった。マサコはもっと話すべきことがあったのではないか、という思いにかられた。これから先友情を深める機会があることを願っていたのに。

 「葬儀に出席できるのでしょうか。」
マサコの問いかけにヒロは済まなそうな顔で答えた。
「どうでしょうか。私たちの意向は伝えてありますが、英国王室は強く希望してはいないようです。」

 結局参列は見送られた。

 それから三年経った。当時ダイアナの死は、パパラッチの追跡から逃れようとして起こった交通事故だとされた。パパラッチは世界中から非難された。

 しかし「日本にパパラッチはいない」「パパラッチが追う価値がある被写体がいない」と言われた。だから何も反省する必要は無い、とでもいうように日本のマスコミは何一つ変わっていない。パパラッチと違うのは報酬の額だけで、底意地の悪さと、嫉妬と好奇心の強さは同じだ。

 マサコが少しでも公務を休めば「ご懐妊か」「お二人の仲は悪いのか」「美智子様ご心痛」、出掛ければ身に付けるもの一つ一つ、一挙手一投足が伝えられる。大仰にセンセーショナルに、来る日も来る日も。

 ヒロはマサコを「僕が全力で守る」と約束した。彼が守るということは「国家が守る」ということだ。国家が守るのはマサコ個人ではなく、皇室という組織だ。

 マサコはヒロを「幸せにして差し上げたい」と思った。結婚して七年経った今、ヒロは幸せだろうか。

 子供は産んでいない、結婚二年目に妊娠したが堕胎させられた。第一子は健康な男子でなければならないものだと聞かされた。マサコは公務を二週間ほど休んだが、「風邪」との発表を信じないマスコミは大騒ぎだった。

 それ以来二人はセックスレス・カップルだ。周りは気を揉み、あれこれ策を労しているようだが、親王誕生には至っていない。

 マサコはヒロに聞いた。
「もしも離婚したら私たちはどうなるのでしょう。」
ヒロは一瞬驚きと困惑の表情を見せたが、きっぱりと言い切った。
「考えられませんね。別れるなんてありえません。」

 マサコは結婚するか否かは慎重に考えた。その頃の男女が、別れる可能性ゼロと信じきって結婚するケースは稀だろう。が、マサコもヒロと同じように「だめなら別れればいい」という選択肢は思い浮かべもしなかった。

 マサコの父親は外務省の官僚だ。「ヒロの望み=国家の命令」だと知っている。この結婚を断れば父の立場はない。父と同じ道を選んでいたマサコの外務省でのキャリアにも壁ができるだろう。

 ヒロの「全力で守る」という言葉を頼りに、マサコはこの結婚を転職と考えることにして承諾した。「職業としての皇太子妃」これを完璧にこなしてみせようとマサコは決めた。

 各国の元首から社会の底辺で苦しむ人々までいろいろな人に会って話ができる。あらゆる場所に行ける。珍しいものが食べられる。マサコの言葉に励まされる人も、喜んでくれる人もいるだろう。やりがいがあるに違いない。

 それは正解だった。あのまま外務省勤務を続けていたのでは決して得ることの無いであろう経験を積めた。学んだことは数知れない。

 しかしマサコが本当に望んでいるのは、「職業としての皇太子妃」を演じることではないと気付いてしまった。マサコの胸にはダイアナが生前友人に語ったという「私は世継ぎを産むために雇われた王室のお手伝いなのよ。」という言葉が突き刺さっていた。

 マサコがお忍びで実家に帰った時、いつも海外を飛び回っている妹がたまたま家にいた。

 「あの方はとってもいい人で、尊敬しているけれど」
なぜかマサコはそれまで一度も口にしたことのない本音を、妹に向かって話し始めていた。
「かっこわるいもんねえ。どう見たって。お姉さんがイギリスにいた時や、外務省にいた時付き合ってた彼氏とは全然タイプが違うじゃない。」

 マサコは苦笑した。この妹はマサコの婚約が決まっても、男のバイクの後ろに跨って大学に通うような大胆でさばけたところがある。だからマサコも言えたのかもしれない。

 「自由がないのは想像以上に大変だわ。いくら昔よりましだといわれても。マスコミの規模も違うし。正直言ってうんざりするけれど、でもそれは承知のうえのこと。」
「愛のない生活は耐えられぬ、ですか?」
妹がぐっと顔を寄せてきたので、マサコは下を向いてしまった。

 「仕事のパートナーとしてはうまくいってると思うの。秋篠宮殿下と紀子さんは喧嘩もするけれど、夫婦という感じが記者会見でも出てるでしょう。」
「見たことないよ。」
それはそうだ、この妹は日本にいるのは年に数週間だ。

 「仮に私が離婚したとして、どういうことになるのか考えようとすけれど、恐ろしくなってしまうのよ。」
マサコが打ち明けると妹は真顔でこたえた。
「お父さんもお母さんも心配するだろうけれど、よーく考えたら、好きにして大丈夫よ。わかってくれるから。」
暖かい言葉だが、マサコの不安は消えない。

 「皇室と国民は許してくれないかもしれない。私はどうやって生きていけばいいのかしら。」
「まあ、大騒ぎになるでしょうね。マスコミに一生つきまとわれることは間違いないでしょう。でも一番やりたいことをやるならいいじゃない。こんなに楽しいです、って見せてあげたら?」
「一番やりたいこと、私にできること…。何かしら。」
「地雷撲滅運動は?手伝うわよ。やっぱり外国に住むのがいいわね。でもイギリスはだめよ、『チャールズと再婚か!』なんて『サン』に書かれちゃうから。」

 マサコがむっとしているのを知りながら妹は続ける。
「今更外交官は無理よね。皇室評論家になればいいじゃない。芸能界デビューとか。」

 妹の勢いに押され、マサコもあれこれ冗談を言ううちに模擬記者会見になってしまった。
「私はこう言うわ『私を助けて下さった方は何人もいました。でも自分を守るのは自分しかないと気付いたのです。守ってもらうことに頼って生きていくのはもう止めます。これからは人を助けることもできると思います。』」

 別れ際に妹はマサコに向かってこう言って片目をつぶった。
「お姉さんはダイアナとは違うんだから。」
(1997.9)