その子

桜井真理

 その子が28歳の誕生日に男と旅行に行った。初めは会社の人とみんなで、なんて嘘をついた。私はその子が嘘をついたことを責めたんじゃない。
「自慢できるような相手じゃないから言えないのよ。顔が良ければ言えるわよ。」
何だそりゃあ。どこの誰だか知らないが、そんな言い方ってあるか。堂々とやれ。私は怒り狂った。

 その子は彼を大切にしていると弁解した。誇れる相手ではないけれど、恥じているのではない。付き合っている相手のことをぺらぺら言うのはセンスじゃない、と言う。

 その子なりに誠実に付き合っているならそれでいい。私としては「マリちゃんは口が軽いから言いたくなかった」と言ってくれた方がすっきりする。しかしオシャベリの私を全面肯定していたその子には言えない言葉だったのだろう。

 この一件で、高校からの付き合いである二人の関係は変化した。いつも「マリちゃんは正しい」と言っていたその子が「それは違う」を連発するようになった。これは悪いことじゃない。サービス精神旺盛なその子は、家族にも友達にも非常に気を使い、時折疲れ果てる。私に無理して合わせる必要なんかない。

 私が本当に心配し始めたのは、地下鉄サリン事件がきっかけだった。職場が霞ヶ関のその子は、被害には遭わなかったが怖くなってその後ずっとタクシーで通勤していたらしい。

 「新宿で何かが起こる」と大騒ぎになった日、その子は私と会う約束を断ってきた。私は不愉快でたまらなかった。
「何でそんな噂に振り回されなくちゃいけないの?誰にも邪魔されたくないよ。その子と遊んでいる時に死んだって、後悔しない。悪いのは私でもその子でもないでしょう。」

 私の話は全然通じなかった。そんなに怖いっていうなら仕方無い。でもその子はそれを恐怖とは認めない。
「友達のお父さんで警視庁の人が危ないって言ってたの。単なる噂じゃないのに、みんな危機意識が全然ないのよ。バカだわ。」
「あおられてるほうがバカなんじゃないの。」
「違うよ。あおられてるっていうのは『怖い、こわーい』って言っているだけの人の事よ。」

 一体どうしちゃったんだろう。以前その子は死にたい、と漏らしたことがある。
「死んでもいいよ。生きてても、死んじゃっても私はその子が好きだよ。」
私の言葉がその子にどう届いたのかわからない。

 死んじゃってもいいと思っているなら何を恐れるのか。その子が恐れていたのは人の目だ。
「死にたい、なんてみっともなくて人には言えない。」
「危険だって言われているところに出掛けて被害にあったら、バカにされる。」
いま、この世界のどこが絶対安全な場所だというのか。たまたま出掛けた先でサリンを吸わされて死んだら、その子は被害者を「ノータリン」と言うのか?

 「根拠のない予言に左右されてちゃ、オウムの信者と一緒じゃない。」
「マリちゃん、あれは予言ではないわ。犯行声明よ。」
「そんな定義付けはどうでもいいんだよ!」
でもその子だけじゃない。当時の日本は総マインドコントロール状態だった。

 そしてその子は自分の事を語らなくなった。私はようやく気付いたのだが、その子は私に対して感情を露わにしたことがない。
「私、反省してる。何でも言えると思って感情をぶつけて、その子を傷付けたかもしれないね。その子も感情を出していいよ、怒っていいよ。私は受け止められる。」
「ありがとう。『与える言葉』だね。でも私は、他人に感情を露わにするのはセンスじゃないの。私もマリちゃんが好き。だけどマリちゃんは粘着質だから疲れちゃう。」

 28歳の女が二人、レストランで向き合い、泣きながら話している。
「その子は鬱病じゃないかって思ってた。」
「私はマリちゃんがおかしいって思ってた。」
その子はすぐに言い返したけれど、私は禁忌に触れたのか。それ以来連絡が取れなくなった。

 私は手紙を書いた。「その子が疲れなくなるには、どうすればいいのか考えたい。私にして欲しいことがあったら何でも言って。私がその子に望むことは、私を信じること、その子の考えてること話して欲しい、それだけです。その子が『疲れる』って言ってくれて、私はいろいろ考えたし、気付かされた。本当に有り難い。その子が心から好きだよ。」

 何の反応もないことに私は混乱した。その子はまめな人だ。手紙や留守電の返事をくれないことなど未だかつてなかった。本当に病気で入院でもしてるのか。実家に電話をした。その子の部屋を訪ねた。帰っていない様子はなかった

 完全に情緒不安定になった私はよく泣いた。恋人ともけんかになる。何度もその子の夢を見た。その子の友人に電話した。「ほっといて」がその子からのメッセージだった。

 友達は「いつかきっとわかってくれるよ」と言ってくれたが、私はこのままその子の人生から消されてしまうのかと不安になる。

 「僕もその子ちゃんと絶交したよ、僕が真剣に頼み事してるのに、訳わかんないこと言ってごまかすから、頭に来て。」
私よりずっと前にその子と絶交していたというシラサワ君の見解はみんなとは違った。
「好みのタイプだったし、何言っても笑ってくれるから遊んでたけど、僕は面白くないし、必要ない人間。君が一生懸命考えたって、その子ちゃんはきっとなんとも思ってないよ。切って捨てたの。そういう人だよ。」

 私は誉めてくれるからその子が好きだったのか?そうじゃない、その子は面白かった。

 4ヶ月ほっておいた。その子の29歳の誕生日に電話をかけた。「おめでとう」「ありがとう」の後さよならも言わずに切られた。ほっておく期間が短すぎたか?私の言葉はお節介、迷惑でしかないのか。私は逃げたくなかった。乗り越えたかった。もう前に進むしかない。

 年賀状で決別宣言をした。「この半年は本当に辛かった。その子と絶交するとは夢にも思わなかったから。悲しかった。でも、何もしていないのにその子が私のことこんなに苦しめるはずない。『待つか、扉を叩き続けるか、諦めるか』ってずっと悩んでたけど、自分自身もその子のことも解放することにした。その子との楽しかったことも、傷付けあったことも全部いい経験、素敵な思い出。どうもありがとう。さようなら。」

 予期せぬ再会は1年9ヶ月ぶりだった。友人の父親を偲ぶ会にその子は現れた。私は、もしも無視されても誰にもわからないような軽い会釈をした。その子は遠くから「ああマリちゃん」と手を振った。笑顔だ。元気そうだ。私の視線はその子を追いかけた。その子は落ち着きなく会場を動き回っている。なかなかこちらへ来ない。やはり言葉を交わすことはないのか。

 その子は料理を取って、ようやくテーブルに着いた。周りの人にかいがいしく世話を焼き、気を使いまくってる様も変わりない。
「はい、マリちゃん。ナプキン使って。」
その子から渡された白い布を受け取る私の手は震えていたかもしれない。私の話を聞いてその子が笑っている。こんな瞬間が再びあるなんて。

 そう思いながらも私の心に闇が広がる。絶交したはずのシラサワ君を「友達」と呼ぶその子。私もまだ「友達」なの?私が死んだら悲しむ?

 会が終わって会場を出て、二人肩を並べて歩いていた時に、私は持っていた小さなバッグでその子をつついた。笑いながら、ちょっと咎めるような感じで。その子は振り向きもせず、
「あ、あれなんだろう」
とあらぬ方向を指差した。もう話し掛けないで、そう言っている目と私の視線は絡まない。私の存在をはねつける顔つきを、私は凍りついて見ているしかなかった。

(1997.8)