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渋谷駅から東横線で二十分ほどのところに日吉駅がある。横浜方面に向かって左手の銀杏並木から、慶應義塾大学日吉キャンパスが広がっている。
私は彼との出会いを覚えていない。何かの授業が一緒だったのか、誰かが紹介してくれたのか、どちらかが声をかけたのか。彼は「志木高」、私は「女子高」と呼ばれる大学付属高校出身で同学年だが、高校時代はお互いを知らなかった。
彼、宇佐美文也君と親しくなったのは大学三年のとき三田キャンパスでゼミが一緒になってからだ。でもその前、日吉の頃から面識はあったと思う。 「十文字さんを知らない人はいないでしょ」 と宇佐美君は言うかもしれない。
私は当時全盛だったテレビ深夜番組の「オールナイターズ」や、雑誌「JJ」に出てくるような女子大生ファッションが嫌いだった。ロンドンに憧れ、パンク好き、オゾン・コミュニティやコム・デ・ギャルソンなどのDCブランド好きで、人目を引く格好で登校していた。
体育会系の男の子たちは私を「シンデイー」と呼んでいた。シンディ・ローバーからとったシンディーらしい。そんなふうに日立つので、宇佐美君は私が彼を知る前に、私を知っていたのかもしれない。
自慢ばかりしているようだが、宇佐美君と私が所属していた猿木ゼミは、入るのが結構難しい。法学部政治学科の中では有名教授のゼミと並んで人気があった。
それは研究分野がマスコミュニケーション論とか記号論とかマルチメディア研究といったものであり、なんとなく就職にも有利そうで、よくわからないけど面白そうなイメージがあっのだと思う。
入ゼミには、マートンの「社会理論と機能分析」に出てくる社会学用語「準拠集団」についての研究ノート、課題図書「パレスチナとアラブ人」「日本のジャーナリズム」「欲望の図像学」のうち一冊を選らんでレポート、自己紹介・志望理由の提出と、さらに試験・面接も課せられていた。
一次選考はゼミ生と大学院生たちに任されている。成績の悪い私が受かったのでみんなに訝られたが、学生が選ぶので必ずしも成績第一ではない。そして私には大きなコネがあった。大学職員である私の母と猿木先生は飲み友達であった。
ゼミの同期は女子が私を含めて十二名、男子は宇佐美君を含めて十名だった。私たちの代はみな仲が良かった。週ニコマ授業があり、サブゼミといって週一コマ、興味のある分野に分かれる研究会もあった。
飲み会やら合宿やら学園祭の準備やらで一緒にいる時間が多い。サークル活動をしていなかった私にとって、猿木ゼミはやがて「所属集団であり準拠集団でもある」と言えるような存在になっていった。
これは全く自慢にならないが、私は初めの授業から遅刻ばかりしていた。もともと私は時間にルーズで、小学校の頃から登校時間を守れなかった。猿木先生にまで注意される始未だった。直らなかった。 遅刻はする、態度はでかい、勉強はできないくせに喧しいでゼミでも目立つ存在だった。私はみんなの優しさに甘えていた。
宇佐美君は初めのうちはクールだった。「僕は他に約束があるから」と言って飲み会にもあまり顔を出さなかった。
最初に宇佐美君と仲良くなったのは、中本っちゃんだった。彼女はテニスサークルに入っていて、日に焼けていた。背は大きくないが華奢な感じではない。黄色とか水色など鮮やかな色の服がよく似合う、活動的でパワフルな女性だ。海外一人旅の経験が多く「地球の歩き方」検証篇といった趣の写真を見せてくれたりする。
宇佐美君は面白がっていつも中本っちゃんと話していた。 「へえ−、すごいね。それでそれで、その後どうなったわけ?」 「だからね、私は高山病になりながらダライ・ラマに会いに行ったのよ。」 「ええ、マジ?よくやるなあ、ホントに会えたの?」 「会ったよ−。」 「おいおい、すんごいなあ。なかなか会えるもんじやないんでしよ?で、どうだったの?」
宇佐美君は彼自身の話も面白いが、聞き上手で誉め上手でもある。会話が楽しい男の子だ。
ある秋の日、私は中本っちゃんから「ゼミの中に好きな人がいる」と聞いた。多分宇佐美君だろうと思った。
私はゼミでは清田君がいいなあと思っていた。清田君はゼミ代(表)で、顔は精悍で怖いけどしやべり方や発言は穏やかで優しい。 「真理ちやん、俺こう思うんだよね。なんかさあ、俺、変かなあ?はははは」 笑うときに口に手を当てる。照れ屋で真面目なさわやか君だ。
とは言っても私には、喧嘩ばかりしているけど大好きな彼氏がいた。大学のクラスが一緒だった林君。それは清田君に対する「いいなあ」とは全然違っていた。
清田君にも彼女がいた。しかし清田君は彼の方が彼女より半年年下であるために、彼女の両親に交際を認めてもらえないと悩んでいた。現代版「野菊の墓」か。今時信じられない感覚だった。 |