「ある」ものが「ない」?
シモーヌ・オノ


 女性社員を「○○ちゃん」とか「女の子」と呼ぶのは女性蔑視ではないかと指摘されても「もっと大事なことがある」と思っていた。呼び方などは個人的な問題で、仕事や待遇面の差別がなければいい、と。

 「へぇー、いまだに女性がそんなことするの。」そう言われても、雑巾がけ、お茶汲み、コピーとりも仕事のうち、力仕事は男性が手伝ってくれるのだし…、自分を納得させるためにそう思い込ませていた。

 男女雇用機会均等法施行以降に入社した私たちは、就職活動中も、入社式でも「男女平等の社会」「女性の活躍を期待している」と説明された。社長も人事も明言した。

 しかし実際には、昇級において(だけではないだろうが)男女差別は存在している。男性ならばよほどの失敗や障害がなければ順調に上がれるはずの階段に、女性には踊り場やガラスの天井があり、しかも階段の幅は非常に狭い。

 私たちは騙されていないだろうか。差別が「ある」のに「ない」というのはおかしいではないか。「大きな組織が変わっていく速度はゆっくりで、少しずつ良い方向に向かっている」という人もいるが、黙って待っていればよいのか。耐えかね、抗議の意味を込め退職していった女性もいた。

 ガラスの天井を突き破るためには、誰かが血を流さなければならないなんて、イヤだ。「女性が認められるためには男性の何倍もの努力と実績が必要だ」なんてご免だ。

 今時「男女差別はあって当然」などといえば袋叩きにされる。だから「ある」のに「ない」というのか、「ある」ようには見えないのか、「ある」ほうがいいのか。

 会社も社員も「男女差別のない職場」とはどういう状態なのか、現段階では理想像かもしれないが、どうしたらその理想に近づくのか、男性も女性も考え、話し合い、行動するべきである。

(1994.12)