| 君は理解されているか? |
| シモーヌ・オノ |
「君の理解者はいるのか。」「君は組織に向いていないのではないか。」会社のさる偉い人と飲みに行った席で、こう問われた。そんなふうに考えたことがなかったので面食らった。 当時多くの社員の不安をよそに年俸制を導入し、能力・競争重視の人事制度改革を急ぐ、あなたの理解者こそいるのですか?と喉まで出かかった。 すぐ後の社員研修でも、グルプで互いの性格を分析しあうプログラムを通じて、メンバーから「協調性が足りない」「理解してもらえるよう努力するべき」といった指摘を受けた。「アイムオーケー、ユアオーケー(自己、他者ともに肯定的)」がモットーの私なのに何故? 確かにそれまでは、「この人、私のこと本当に理解しているかしら?」といちいち気にしたことはなかった。「誰も私を理解してくれない!」なんて思春期にさえ思った記憶がない。周りの人全てが私を理解してくれることなど有り得ないし、理解できない人はそれでいいと思っていた。 しかし、理解したいと思ってるのにわからない、という人もいるかもしれないと気がついた。ならば私は理解してもらえるように説明すればいいし、表現すればいい。相手のために周りに合わせるのではなく、自分のために周りに働きかけよう。 このように軌道修正して一年半が過ぎた。半年に満たないお付き合いだった上司からの送別のメッセージは「人に理解してもらうのはなるべく早いほうがいい。異動が決まってから『いい人だったね』と言われてもしょうがないんだから。」ということだった。努力をしてはみたものの、私が理解される道は遠い…。 そこで考えてしまった。何故「理解されているか」がそんなに大事なのか?「相手を理解する努力」の方が重要なのではないか?理解できるか否かは人によって能力が違う。理解したくない人に理解させるのは至難の業だ。 だいたい私は正直だし、「私もあなたもOKよ」なのだから、非常に理解しやすい人間のはずだ。 もしかすると、偉い人も元上司も「俺を理解しろ」と言いたかったのかもしれない。あるいは彼等は理解能力がないのを人のせいにしているとは言えないか。 そもそも「人を理解する」とはどういう状態をいうのだろう。「その人の立場や気持ちを知る、思いやること」と一般には解釈されるだろうか。 中島義道という哲学者の著書「哲学の教科書」(講談社)には興味深い記述がある。 「よく世の評論家や教師は、若い人々に向かって『他人の痛みがわかる人間になるように』とか、『他人の立場に立ってものを考えられる人間になるように』とか演説しますが、ちょっと立ち入って考えてみますと実はこれはなかなか難しいことです。」「他者問題とは、他人に乗り移ることではなく、他人と一体になることでもなく、自分であり続けながら異質な他人を理解することです。」「むしろ私は世の評論家や教師は、若い人々に『他人の痛みや気持ちをわかる難しさ』を教えるべきだと思っております。そこから自然に他人に干渉しない、他人を異質なものとして尊重するという態度が養われるからです。」 私はこの考えに全面賛成である。告白しよう。つまり私は、正直なところ会社や世間の人たちからどう思われてもいいのだ。好きなように解釈してくれて構わない。私は私の大切に思う人が、私を理解してくれることを願う。 現在私の理解者の代表格は、今の恋人だろう。相手に同調することや二人の差異を解消することを目的とするのではなく、お互いに理解し合いたいと考えている。 私にだって最高の理解者がいるんだ。 |
| (1997.5)発表は1998.10 |